義烏市の歴史は古く、秦の始皇帝の時代、贏政25年(BC222年)には、既に「烏傷」の名称で県として存在していた。この地名は、顔義という男が父親を亡くし埋葬しようとすると、からすが飛んできてくちばしを傷つけながら埋葬を手伝ったという言い伝えによる。義傷、烏孝、烏傷などの過去の県名もこれによる。唐朝の武徳7年(624年)に名称を義烏へ変更。義烏はもともと浙江省の一つの貧困な農業県だった。浙江省は上海に隣接しているものの沿海部の一つの小さな省に過ぎず、土地は中国全土のわずか1%で、76.8%が山や川などで占められ耕地は非常に限られた状態だった。更に内陸地域と比べ人口密度が高いため、当然一人当たりの耕地面積は少なく、「人と土地」のジレンマは浙江省の従来からの大きな課題だった。その上、浙江省は資源に乏しく、国からの優遇政策などもほとんどなかったため、生活には特に厳しい地域だったという。こうした厳しい環境の中で、義烏の農民達は農閑期の暇を利用して、生活の必需品などを作って販売するようになった。勤勉に働き、消費ニーズのある品物を発見し、商品として販売すれば利益を得られるという感覚を、早くから身に着けていった。こうした農民の考えを県政府が支援 1982年、農民出身の当時の義烏県政府書記(義烏県政府の最高責任者)は、商業活動を重視し「商業振興による都市建設」をスローガンに揚げ、日用雑貨の専門卸し市場として「中国義烏小商品城」の創設を認めた。第一代市場 1982年8月、粗末な義烏第一代日用雑貨市場が誕生した。道を市にし、木板を出店場所にし、「大通り市場」と呼ばれた。第二代市場 1984年末、セメント床を市にし、セメント板を出店場所にし、瓦棚を屋根にし「麦わら帽子の市場」と呼ばれる第二代市場が開業。出店している総数は2847個まで達し、輻射範囲は周辺の県から省内外まで延びた。第三代市場大規模な自由市場を作り上げた。敷地面積は44000平方メートルで、増築することによって、1990年末までに全国最大の日用雑貨の専門卸市場になった。第四代市場 1992年2月、篁園市場を作り上げ、1994年7月篁園市場2回市場を作り上げた。日用雑貨城の建築面積は22.8万平方メートル、出店場所の数は23000個まで増えた。第五代市場 1995年11月、中国日用雑貨城賓王市場を作り上げた。市場の敷地面積は約209ムーで、主に服装・メリヤスの下着・ネクタイ・毛糸・タオル・革・織物・レース・寝具・副食・ドライフルーツ・キャンディ・炒め物・雑貨・出版物など16種類の業界の商品を経営。第六代市場 2001年に義烏国際商貿城を建設し、ワンストップ式国際貿易のプラットフォームで、五つの区域に分かれている。中国の情報化と近代化の程度が最も高い卸売市場の一つで、「浙江省で最も行きたい観光地区」の一つでもある。 |